沖縄、名護にて(辺野古・デニデニ滞在記)


第9回  「折れない心」

4月21日、衆議院沖縄3区補選で、玉城デニー知事の後継者、無所属新人の屋良朝博さんが、自民党(公明推薦)の元沖縄・北方担当相の島尻安伊子さんを破り当選した。2月24日に行われた沖縄県民投票に続き、ここでも、はっきりと民意が示された。

 

にもかかわらず、日本政府は、辺野古の暴力的な工事をいったん止めて考えるふりさえしない。

 

5月、トランプ米大統領が国賓として来日した際にも、安倍首相は、ゴルフや相撲観戦などで連日もてなし、米国製の兵器や戦闘機を大量購入する約束はしたが、沖縄のことは話題にもしなかった。日米地位協定の改定についてだけでも、トランプさんに協議をもちかけるべきだったのに。「沖縄に寄り添う」どころか、沖縄を蹂躙し続けている。本土の人間のひとりとして、ほんとうに恥ずかしく、申し訳なく思う。

 

けれど、デニー知事をはじめ、沖縄の人たちは決してあきらめていない。工夫を重ね、理解を求め、地道な働きかけを続けている。

 

いったいどれだけの打たれ強さを持っているのか、沖縄の負けない力 . . . 。きっと、瀬長亀次郎や阿波根昌鴻といった先人たちの気質が、一人一人のからだの中にしっかりと受け継がれているのだろう。

 

 

ふっと、レジリエンス(résilience)という言葉を思う。

 

ボリス・シリュルニクの『憎むのでもなく、許すのでもなく―ユダヤ人一斉検挙の夜』という本で知った「しなやかで柔軟な、折れない心」。

 

 

もうすぐ6月23日。慰霊の日がやってくる。

 

昨年の翁長雄志知事の、たましいの「平和宣言」(下記)から一年 . . . 

 

たった一年のあいだに、なんと多くのできごとがあったのだろう?

 

翁長さんが亡くなり、玉城デニー知事が誕生し、それなのに、辺野古の海への土砂投入が強行され . . . 

 

ひとつひとつ思い出すと、まるで何年もの歳月が過ぎたように感じられる。

 

沖縄のことで悲しくなったときは、

 

石垣島在住の歌人、松村由利子さんの歌になぐさめられ、励まされる。

 

 

   不発弾あまた隠されこの島も長き戦後を苦しみており

 

   椅子とりゲーム何度やっても一人だけ残され続けている沖縄

 

    首都の雪ばかり報道するテレビ南の抗議行動続く

 

        歌集『光のアラベスク』松村由利子(砂子屋書房)より

 

どうかわたしも、あきらめず、うそ、いつわりのことを言わず、平和のために働けますように。わたしたちのすべての言葉と行いに、愛と祈りが注がれますように . . . 。

 

◆ 下の写真は、 6月9日(日) 毎日新聞・東京新聞・琉球新報・沖縄タイムスの朝刊に掲載された意見広告です。

沖縄慰霊の日 翁長雄志知事の平和宣言(全文) 2018年6月23日 

 

  20数万人余の尊い命を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、73年目となる6月23日を迎えました。

 

 私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日に生きています。

 

 戦後焼け野が原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、復興と発展の道を力強く歩んできました。

 

 しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0・6%にすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70・3%が存在し続けており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています。

 

 昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の、米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きがはじまっています。

 

 平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。

 

 これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきたとおり、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯(しんし)に考えていただきたいと願っています。

 

 東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では、地域紛争やテロなどにより、人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積しています。

 

 世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。

 

 かつて沖縄は「万国津梁(しんりょう)」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。

 

 そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆(つな)ぐことができる素地ができてきており、日本とアジアの架橋としての役割を担うことが期待されています。

 

 その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。

 

 本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げるとともに、恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、未来を担う子や孫が心穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。

 

  ―――― 沖縄県知事 翁長雄志

筆者

渋谷やみぃ

[プロフィール]おもに療養中・不登校の児童の家庭教師。ゴスペルシンガー。LGBTQ+。伊豆・熱海生まれ、三島育ち、埼玉県比企郡在住。乳がん・アルコール依存症。好きな作家は、E. L. カニグズバーグ、橋本 治。

沖縄についてもう少し知るために

やみぃさんがつぶやいた「レジリエンス」という言葉で、思い出したのが、藤井聡さんの『救国のレジリエンス 「列島強靱化」でGDP900兆円の日本が生まれる』という本です。

 

国土強靱化というキーワードで、現政権のブレーンを長く務めた学者さんが、なんと山本太郎のブレーンになったことを知りました。

 

震災後のザワザワした国民感情に、民主党が掲げた「コンクリートから人へ」よりも、「国土強靱化」という言葉は、力強く、頼もしく、そこに共感して現政権を支持した人は大勢いたように思います。

 

ところが、本来なら老朽化した国土のインフラを整備することに使われ、新たな雇用を生み出すはずだったぼくたちの税金が、辺野古の海を壊したり、欠陥品かもしれない飛行機を爆買いすることに使われていることに、強い憤りを覚えます。

 

藤井さんのことは詳しく存じ上げないので、真意は測りかねますが、もし心ある学者さんだとしたら、立場の大きな変化も、当然だろうと思います。

 



第8回

政府は、県民投票の結果さえガン無視。その後も辺野古の海に土砂や石材を投入し、沖縄の民意を踏みにじり続けている。

 

 「福島と沖縄はよく似ている」

 

昨秋、福島県の楢葉町へ行ったときに感じた思いが、8年目の3月12日を迎えてまたよみがえる。

安倍政権は、福島にも沖縄にも口先だけの「耳を傾け」「寄り添う」を繰り返す。

 

普段相当にのんきなわたしも、さすがに怒り心頭に発している。

手前味噌ながら、しごくまっとうな「怒り」だと思う。

けれど、まっとうだからこそ、この怒りが「暴力」や「憎しみ」につながらないよう、気をつけよう。

日々「非暴力」の決意と訓練が必要だ。

 

どんなに腹が立っても、絶望しないこと、暴力的にならないこと、けっして。言葉の上でも。

つねに、キング牧師、バーニー・サンダースを見倣うこと。

つねに、阿波根昌鴻さんを思い、イエスとともにあること。 

 

               2019年3月12日 ― やみぃ

 

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 2018年9月。

名護では、県知事選までの三日間のあいだに、阿波根 昌鴻(あはごん しょうこう)さんの名前を四度も聞いた。――伊江島の土地闘争や反戦平和運動の指導者で、沖縄のガンジーと呼ばれた人だ。 

 

最初は、宜野湾市へ同行してくれた比嘉さんから。阿波根昌鴻さんの「非暴力・不服従」の抵抗の精神が、辺野古や高江の人々のあいだにいまもしっかり受け継がれている、と。それを比嘉さんが誇らしく感じていることが、話し振りから伝わってきた。

 

阿波根昌鴻さんは、わたしにとっても、80年代に浦添に滞在したときにその名を知って以来、ずっと気にかかる人で、何度かブログの記事でも取り上げたりしていた。

 

けれど、今回の旅で、伊江島の想像を絶する惨状や受難と、阿波根さんの平和を求める不屈の精神、宗教家と呼びたいような端正な一面、おっとりとした陽気で楽しい雰囲気などが、ようやく一つに重なった気がする。 

 

阿波根昌鴻さんの経歴や功績については、Wikiなどにも詳しいし、岩波新書の『命こそ宝―沖縄反戦の心』など読んでいただけたらうれしい。 

 

きょう、ぜひお薦したいのは、YouTubeにある講話の映像だ。

 

 ◇ 1995年6月22日、敗戦50年の沖縄慰霊の日の前日のお話。(当時94歳) 

   文字に起こしたものをこちらに置きます。 

  https://bit.ly/2Fm3meN (Facebook Note) 

 

 ――動画は、阿波根さんの不屈の精神とミスマッチな(速度を1.5倍にしてもいいくらいの)のんびりとした語り口がすてきです。

 

  以下、阿波根さんのお話や著書から、示唆に富む言葉を。 

 まず、1954年の「陳情規定」から

 

 ◆ 伊江島土地を守る会 陳情規定 一九五四年十月 

 

 一、米軍と話をする時は なるべく大勢の中で何も手に持たないで座って話をすること

  耳より上に手を上げないこと 

 

一、決して短気をおこしたり相手の悪口は言わないこと 

 

一、うそ、いつわりのことを言わないこと 

 

一、布令布告によらず 道理と誠意を持って 幼い子供を教え導いていく態度で話すこと 

 

一、沖繩人同志はいかなることがあっても決してケンカはしない 

 

一、私たちは挑発にのらないため今後も常にこの規定を守りましょう

 

 同じときに作られた「米軍と話すときの心得」には次の一節もある。

 

「この不幸な土地問題が起きたのは、日本が仕掛けた戦争の結果であり、我々にもその責任があることを忘れず、米国民を不幸にするようなことはつつしむこと」

 

アメリカ軍によって、伊江島の人々の半分(1500人以上)が殺され、家や建設中だった農学校も焼き払われ、土地もすべて奪われた。

それなのに、うそ、いつわりを言わず、誤った法令によらず、道理を持って謙虚に、って、すごい。「日本」が仕掛けた戦争だから自分たちにも責任がある . . って、すごすぎる。

 

 阿波根さんの、こうした徹底した非暴力の闘い(無抵抗の抵抗)のアイデアは、どうやってもたらされたのだろう? 最愛の一人息子(沖縄戦で19歳で戦死)をも奪ったアメリカ軍への寛容は、どこから生じたのだろう? そして、1955年当時に、なぜ「乞食行進」なんていうすごいデモを思いつけたんだろう? 

 

 (*「乞食行進」とは、土地を奪われ、生きる術をなくした伊江島の農民が「生きるためには乞食になるしかない」と決断し、「乞食をするのは恥であるが、武力で土地を取り上げ、乞食させるのは、尚恥です」と書いたプラカードを持って、約7カ月にわたり、沖縄本島を常時20~30人で歩いたもので、島の窮状が広く知られるきっかけとなりました) 

 

 資料館「ヌチドゥタカラの家」の入り口には「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と聖書の言葉が掲げられている。阿波根昌鴻さんの言動・行動の根っこには、つねにイエスの教えが感じられる。――阿波根さんは、大分で病気療養中(17歳)のときに、お世話になったキリスト教の牧師さんのところで洗礼を受けている。 

 1925年(24歳)出稼ぎのためキューバへ移住。5年後ペルーへ。1934年帰沖。その後も働きに働いてすこしずつ土地を買い増やしていく。そのかたわら、西田天香の一燈園で宗教的共同生活を体験、内村鑑三の無教会主義、また興農学園(キリスト教主義に基づく私立の農民道場)のデンマーク式農業や農民運動などを精力的に学び、伊江島に農民学校を建てようと奔走した。 

 

 実際、1943年には、農地も四万坪に増え、石造りの美しい豚舎と牛馬舎、水の設備が完成。農民学校の校舎も8割方が出来上がっていた。 

 けれど、沖縄戦で建物は焼失、土地もすべて米軍に基地として接収されてしまう。 

 

 阿波根さんはじめ伊江島の人たちが、テロリストになってもおかしくないような状況下で、非暴力・非服従を貫けたのは、やはり内村鑑三のキリスト的非戦論由来だろうか。 

わたしは、「乞食行進」には、一燈園の「托鉢」の影響も大きかったように思う。西田天香の「托鉢」は、禅宗の各戸をまわってお布施を受けるのとはかなり違って、社会への奉仕、施す側の「与える気持ちをもらいにいく」という考え方らしいのだ。

 

だから、伊江島の人々は、堂々とした乞食だった。乞食行進は、貧しくも誇り高くて、だから支持を集め、たくさんの人を巻き込んでいけたのだろう。

一燈園の件でもわかるとおり、阿波根さんの特長の一端は、クリスチャンだけれどキリスト教に必要以上にこだわらず、「宗教というものは、もとはみな一つ」と考えるところかと思う。  

 

 ”キリストは「貧しい者は幸いなり」といっておる。……そして愛と寛容。釈迦もそうです。王様の一族で大金持ちなのに、全部捨てて、お椀一つで暮らした。そして慈悲。生き物は殺してはいけない、まして人間が殺し合いなどしてはいけない、これが仏教……。孔子は仁義と言った。心と行ないが一致しなければならない、こういう教えだった……。

        (中略)

ほかの宗教は間違っているという人がおります、そういう宗教家の人たちからは学ばない。キリストや釈迦や孔子はどういう生き方をしたのか、何を願っておったのか、そこを学ぶ。

        (中略)

平和運動も(中略)生活の場でも平和でなければ本当の平和は実現しない。悪いことだけはしない、生活の場から平和をつくりだしていく” 『命こそ宝』(岩波新書、1992年)P. 186より 

 

この大らかさと柔軟性は、玉城デニー知事や元山仁士郎さんとも通じるものだ。「対話」を重視するところもよく似ている。

ううん、デニーさんや仁士郎さんだけじゃない。故・翁長雄志さんも誰もかも、沖縄の人たちの多くが、阿波根さんから大切なチムグクルを受け継いでいるのに違いない。

チムグクルとは、「肝心」「人の心に宿る深い想い」「真心」のことと、教わった。

 

 参考資料 

「沖縄・阿波根昌鴻と一燈園との関わり-」(著者 岡本直美)

雑誌名 神戸外大論叢巻65号 2015年


沖縄についてもう少し知るために

不思議な偶然なのですが、やみぃさんが引用している『命こそ宝 沖縄反戦の心』が、うちの本棚にありました。

まさか、阿波根昌鴻さんが、こんなに立派な人物だと知らず、タイトルが気になって、本屋で衝動買いしたような記憶があります。

ずっと積ん読状態でしたが、これを機会にじっくり勉強したいと思います。

阿波根さんは若いときに内村鑑三の無教会主義に強い影響を受けたと言われていますが、発行人のわたしも20代前半の頃、むさぼるように内村鑑三を読んでいた時期があります。

それなのに、阿波根さんと違って、とうとう信仰を持つことができず、いまだに惑いながら馬齢を重ねていますが、25歳までに読んだ本が一生を左右するなんていう説もあるので、もしかするとわたしのの考え方の奥深くには内村鑑三も横たわっているのかもしれません。

 

やみぃさんが書いている、阿波根さんの他の宗教に対する寛容さや、しなやかさは。内村の中にも見つけることができます。

その好例が英文で書かれ、日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作といわれる『代表的日本人』です。

西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人が紹介されていますが、中でも一番強く激賞し、印象に残っているのは法華宗の宗祖日蓮でした。

内村は、日蓮のラジカルな生き方に自分を重ね合わせていたような気がします。

そして、JESUSとJAPAN、2つのJを大切にした内村らしい名著です。

ちょっと、堅くなったので、誰でも知っている「すべての人の心に花を」を聴きたくなりました。やはり一番好きなバージョンはオリジナルのチャンプルーズのアルバム「ブラッドライン」に入っているバージョンです。

アメリカ人のライ・クーダーが弾くギターの音が、なんとも優しく、うっとり聴いてしまいます。



第7回

2月24日、沖縄県民投票。

辺野古埋め立て「反対」が7割強、43万4273票で、昨年9月に玉城デニー知事が作った得票記録39万6632票を大きく更新した。

しかも、 難しい立場に置かれた二市、普天間飛行場のある宜野湾市、辺野古を抱える名護市でも、反対票がそれぞれ67%、73%だった。何度も民意を踏みにじられて怒り疲れ、政治や選挙にウンザリしている人も多いのに、投票率も52%を超えた。すごい数字だ。速報に涙があふれた。

 

しかし、政府は、この圧倒的な反対の意思表示をも無視して、暴力的に土砂投入を続けている。

(詳細は リテラ の記事で「安倍首相が玉城デニー知事に沖縄無視・辺野古続行をあらためて宣言! 小林節は「県民投票には憲法上の拘束力ある」と指摘」

 

いわく、「支持がないのは承知している(が、埋め立て工事を進める)」「沖縄には沖縄の、国には国の民主主義がある」。

なんという不遜。沖縄は日本ではないのだろうか?

ゾッとしてめまいがするけれど、ここで落胆していては政権側の思うつぼだ。

 

今後のために、いま一度、息の長い沖縄の非暴力・不服従の平和運動について、おさらいしておこう。

 

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2018年9月13日。沖縄県知事選の告示日、玉城デニー候補は「伊江島」で第一声をあげた。

県北部の小さな離島。 

その姿に、多くのウチナンチュが感激したそうだ。 

名護の事務所の人たちも、「さすがはデニーだ」と言っていた。 

 

伊江島は、デニーさんの母親の生まれ故郷だから。 

沖縄では、本島だけでなく、150にも及ぶ「離島」の存在が、沖縄を形づくっている。伊江島は、船でしか行けない離島の代表のような島だから。 

そして、多くの命と土地とを奪われた人々が、抗議の声をあげ続けた「島ぐるみ闘争」の発祥の地だから。 

伊江島は、デニーさんの、そして沖縄のアイデンティティそのものだ。 

 

――だから、伊江島から始めたかった。 

 

そんなデニーさんの第一声にわたしも感激した。 

でも、そのときはまだ伊江島のことをよく知らなかった。いま思うと、全然だった。 

 

1945年4月、伊江島は凄まじい空爆と地上戦によって焦土と化す。周囲22Kmの小さな島で5千人もの犠牲者 . . . 沖縄戦の縮図のようだ。また、伊江島では少なくとも四つのガマなどで「集団自決」が起きて200人以上が殺されている。 

そして、戦後もずっと続く米軍と日本政府による蹂躙 . . . 。 

(下記。大まかな年表を。犠牲者の一人一人に美しい島での暮らしがあり、愛する人がいたことなどはできるだけ想像せずに . . .  作りました。)

 

基地があるということは―― 

犯罪や事故が繰り返され、暴力にさらされ続けるということ。 

いつかまた標的にされ、戦場になってしまうということ。 

 

それを一番よく知っている人たちが、「もうこれ以上は嫌だ」と言っているのだから、わたしたち本土の人間は、ほんとうにもう聞かなくてはいけないと思う。 

人として。 

 

伊江島年表

1944年、かつてはのどかな島だった伊江島に、「東洋一」といわれる飛行場を日本軍が建設していた。米軍は、これに目をつけて激しい攻撃を繰り返す。 

(学童疎開船の対馬丸が撃沈され、沖縄の学童767名、計1,418名が犠牲になったのもこの年)  

1945年4月16日、米軍は伊江島に上陸。島の男は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女も女子救護班や婦人協力隊として日本軍に任務を割り当てられた。妊婦や子どもまでもが、爆雷を背負ったり手榴弾や槍をかかえて米軍陣地に突っ込む「斬り込み」(玉砕?)をさせられた。 

4月21日、6日間の激しい戦闘の末、米軍が伊江島を制圧。空爆と艦砲射撃によって、島全体が焦土となり、城山(ぐすくやま)も姿を変えた。 

村民の犠牲者1,500~1,600名、日本軍約2,000名が戦死。 

生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。 

4月22日 日本軍の井川部隊が最後の抵抗。島民は、避難していた壕アハシャガマで「集団自決」に追いやられ、120~150名が死亡。(20名ほどの生存者がこの悲劇を後世に伝えている) 

6月23日 沖縄の日本陸軍司令部、全滅。 

8月15日 日本本土では終戦。 

9月 7日 沖縄の日本軍が降伏文書に調印。(沖縄の終戦) 

   

1947年、終戦から2年後、移住させられた島民がようやく島へ戻ることを許され、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見する。このとき、島の土地の63%が、すでに米軍の軍用地として接収されていた。 

1948年、米軍爆弾処理船LCTの爆発事故が発生。村営の連絡船が爆発にまきこまれ、乗客、船員ならびに出迎えの人、あわせて102名が死亡。負傷者は73名にのぼり、8家屋が全焼した。(補償は20年近く経て1967年支払われることに) 

1950年6月、朝鮮戦争が始まる。 

1953年 米軍は伊江島での軍用地拡大を目指し、さらなる土地接収と立ち退きを通告。

 

 (7月19日、住民が戦争で荒廃した土地を耕し、家を建ててやっと暮らし始めたところに、琉球米民政府土地係官で日系二世の後藤が村役所に来て、米空軍用射爆演習場建設の為、半径3,000フィート、約78万5,000坪に及ぶ土地接収と立ち退きを通告。7月24日、後藤は再び伊江島へ。真謝区民8名に測量を手伝わせ、日当を払うという名目で英文書に捺印させた。が、この文書は立ち退きの同意書だった)

 

1955年、「銃剣とブルドーザーによる土地接収」。催涙ガスなどを伴った武装米兵約300名が上陸、農民に銃を突きつけ、家屋に放火しブルドーザーで破壊。13戸が焼き払われる。13戸75名は、トラックへ積み込まれ、野原のテント小屋へ移送される。(強制収容、5か月余) 

戦後10年がたっても、飢餓と栄養失調で倒れる村民が相次ぎ、1959年の不発弾回収中の死亡事故、1961年の青年が米兵によって射殺される事件などが起きている。 

1972年の沖縄返還後も基地は存続し、墜落事故、米兵による犯罪など、人々は基地負担に苦しみ続けている。 

いまも、伊江島の35%は米軍基地である。

 

参考文献:

『命こそ宝―沖縄反戦の心』(阿波根 昌鴻、岩波書店、1992年)

『米軍と農民 沖縄県伊江島』(阿波根 昌鴻、岩波書店、1973年)

『戦後沖縄の平和運動にみる非暴力主義 一1950年代の「土地闘争 を中心に一』(石原 昌家・新垣 尚子、沖縄国際大学社会文化研究Vol.2 ,1998年)

追伸:小金井市や小平市の議会のように、「辺野古の新基地建設をただちに止めて、その上で全国で議論を」という請願、わたしの町でも出せたらと思案中です。――やみぃ


沖縄についてもう少し知るために

今朝(3月3日)、TBSテレビ「サンデーモーニング」を見ていたら、政治評論家田中秀征さんが辺野古の海兵隊基地について解説をしていました。

軟弱地盤でこれからいくらかかるか分からないほどのコスト(=僕たちの税金)の問題もさることながら、①地球温暖化による水没の可能性②沖縄に基地が集中することによる、攻撃された場合の脆弱性③日本を防衛するワケではない海兵隊基地が沖縄に集中する必要性

この三点が特に印象に残りました。

そして、いまが工事を中止する最後のチャンスだと。

やみぃさんの追伸にでてくる小平市で、思い出したのが國分功一郎・山崎亮『僕らの社会主義』です。

國分氏の発言にこんな記述があります。

「僕が関わった住民投票運動というのは、住宅地と大きな雑木林、そして国の史跡でもある玉川上水を貫通する巨大な都道の計画について、住民参加無しにこれを一方的に進める東京都のやりかたはおかしいのではないかという問題意識から始まった運動でした。」

東京の小平で、沖縄の名護、辺野古で。

少しずつ、ゆっくりと、でも着実に、世の中の潮目が変わりつつあるのかもしれません。



第6回

神の計らいだった、と思う。

埼玉に住むわたしが、玉城デニーさんの県知事選を手伝えることになるなんて. . . 。

 

沖縄へ行くのを決めたのは、2018年7月のことだった。映画やニュースで見ていた辺野古と高江に実際に行ってみたかったのだ。

8月の休みには西日本へ災害ボランティア、10月には福島と宮城(楢葉町や石巻の旧大川小学校)へ行く約束があった。それで、沖縄行きは9月末にして、9月27日(木)~30日(日)、名護のホテルを4泊予約した。 

 

7月27日、辺野古埋め立て承認撤回表明のニュース!

感無量だった。9月に行ったら県庁で出待ちして、翁長雄志知事にお礼が言いたいと考えたほどだ。

でも、喜びもつかの間、翁長さんは8月8日に亡くなってしまった。ご病気だったから心の準備はしていたけれど、早すぎる。悲しすぎる。

 

8月13日、沖縄県知事選は9月30日投開票と決まった。 

飛行機とホテルの予約をキャンセルしようか、ひどく迷った。 

翁長さんの後任を決する大切な選挙のちょうどそのときに、わたしなどが行ってもいいのか? 

沖縄では、ありがた迷惑な人たちが本土(内地)から押しかけて、困った言動を繰り返していると、ときおり耳にしていた。 

そういう人はどこにでもいる。被災地にも、乳がん患者の会にも、アルコール依存症者のもとにもやって来る。みんな善意(≒悪気はない)なだけに、むげに断れなくて、せつないんだな。

わたしは、沖縄で、ありがた迷惑の ”困ったナイチャー" にならずに済むだろうか。 

 

8月16日夜、そんな迷いをかかえたまま、わたしは一人、豪雨災害のひどかった愛媛へ向かった。 

災害ボランティアチーム「援人」 

 

そこの仲間たちに合流する形だった。

(3年前、福島県の南相馬市で、いまではうちの愛犬ハチとノエルが、生まれたばかりで捨てられていたのを拾ってくれたのも、援人のメンバーです)

 

「援人」のボランティア。7月の段階では倉敷か呉に行く予定だった。だから、とりあえず岡山県の福山まで、夜行バスのチケットを買っておいた。けれど「そのときに一番必要とされる場所へ」という方針から、8月のお手伝い先は愛媛県の西予市に決まった。

わたしは、福山からしまなみ海道を通って四国へ渡ることにした。

おかげで、途中で、今治の友人シホちゃんと会えることになった。2007年に愛媛FCと浦和レッズが対戦したとき以来、11年ぶりの再会だ。 

前々日、シホちゃんが「お昼は、和食、洋食、ご当地B級グルメのどれがいい?」と訊いてくれた。「今治のご当地グルメ!」と即答した。 

 

8月17日のランチは、今治の「白楽天」で焼豚玉子飯(やきぶたたまごめし)!! 

さすがに有名店、長い行列ができていた。しばらく待っていると、相席だったらご用意できますが、と言われた。 

「相席、いやね」と二人で顔を見合わせ「でも、時間ないし、OKしよう!」

 

案内されたのは四人掛けのテーブルで、お向かいに座っていたのは、20代前半くらいの青年と、上司だろうか壮年の男性の二人組だった。出張で、大阪から日帰りで今治に来たそうだ。タオル美術館の行き方だとか、シホちゃんが教えてあげていた。 

 

「もしかして、沖縄の方ですか?」 

二人の会話の中に那覇などの地名が頻繁に出てきていたので、ふっと尋ねてみた。 

二人とも沖縄の人だった。 

 

「じつは、9月に沖縄に行こうかと思っていて . . 。でも、翁長知事が亡くなってしまって . . . 」と言うと、上司さんのほうが答えた。 

「翁長知事のお葬式、行ってきましたよ。あっ、(親戚とかじゃなく)仕事ですが」 

そう言って、名刺をくれる。 

「わたしたちは、QAB 琉球朝日放送、関西支社の者で、じつはきょうも取材で . . . 」 

 

わたしもあわてて、バッグの中を探す。 

(あちゃ、雪子さんの名刺しかない . . .  けど、名前載ってるからいいかな?) 

「渋谷やみぃと言います」 

映画『雪子さんの足音』を支援する会で作ってもらった名刺を二人に渡す。 

 

『雪子さんの足音』は、敬愛する友人、浜野佐知監督の最新作だ。 

 

「映画がお好きなんですね?」 

年長のほうの謝花さんが、にっこり笑った。 

わたしもうれしくなって、笑顔で答えた。 

「はい。映画、とても好きです。」 

 

+*+-+*+-+*+  +*+-+*+-+*+ 

 

「もしや . . . 『標的の村』という映画、見ましたか?」 

謝花さんが尋ねる。 

わたしは、もちろんという顔で答える。 

「あの映画の監督、三上智恵は、元同僚なんです」 

そういえば、三上さんは放送局にいたってどこかで読んだ。 

 

「いま彼女の新しい映画、『沖縄スパイ戦史』の上映が始まって . . . 」 

「はい、友人が先週見てきて、感激してました。ポレポレ東中野、満席だったそうです」

 

話がつきない。 

旅先で巡りあった人と、焼豚玉子飯を食べながら、『沖縄スパイ戦史』の話をしている、って、なんだかおかしい。 

シホちゃんと知念さんは、すこし驚いたようにしている。 

知念さんは、まっすぐな感じの好青年。愛媛の豪雨被害にも興味を持って、被災地は松山空港からどれくらいかと、時間があれば行きたそうだった。 

 

なんてすてきな人たちだろう . . . ! 

わたしは、気に掛かっていたことを打ち明けてみた。 

辺野古へ行こうと計画していたけれど、翁長知事の後任を決する大切でデリケートな選挙のときに、大和(内地)からわたしのような者が行っていいのか。 

 

「行くといいですよ . . . 」 

謝花さんがそう言うと、知念さんも、大きく肯く。 

 

「行くといいです . . . 当然いろんな考え方の人がいるけれども、とにかくその数日は、沖縄が一番熱いときです」 

「行って、肌で感じてほしい」 

 

心がすうっと軽くなった。 

そうだ 沖縄へ行こう。 

まだ、誰が県知事候補になるのか、どんな選挙になるのか、それまで辺野古はどうなるのか、何もわからなかった。だけど、とにかく行ってみよう。 

 

沖縄の人が勧めてくれたからといって、「免罪符」にはならない。 

どんなに島唄やカチャーシーを習おうと、わたしが沖縄の思いを踏みにじり基地の偏在をつくっている ”本土” の人間だということは、変わらない。 

それでも、謝花さんと知念さんの言葉は、迷いを消すには十分だった。

見えない力が背中を押してくれていた。 

 

もし「援人」の行き先が、愛媛の西予に変更にならなかったら、 

もし福山行きの夜行バスを予約していなかったら、 

もしお昼が焼豚玉子飯じゃなかったら、 

もし相席を断っていたら、 

もし ”映画『雪子さんの足音』” の名刺を出さなかったら . . . etc. 

 

数え切れないほどの偶然が、こぞってウィンクしているようだった。 

 

今治から予讃線で八幡浜へ向かった。列車の中で、シホちゃんが買ってくれたバリィさんのストラップをリュックにつけた。そして、思った。 

「この子を沖縄にも連れて行こう . . .♪ 」 

 

愛媛から埼玉の自宅へ戻って、もう一度びっくり。 

 

8月22日、お礼のメールをしようと、もらった名刺のお名前を調べたら、 

 

なんと、謝花尚さんは、映画『標的の村』のプロデューサーだったのだ。 

まさかひゃー!

 

8月26日、玉城デニーさんが、翁長雄志知事の後継候補としての出馬要請を受諾。

 

そのときには、デニーさんの選挙を手伝えるなんて、夢にも思っていなかった。

 

半年後にこんな文章を書かせてもらうことも . . . 。

神さまの計らいはずっと続くのだった。


沖縄についてもう少し知るために

やみぃさんが文中で映画の話をしていますが、沖縄を舞台にした映画というと、個人的に印象に残っているのは、作家の椎名誠が監督をした『うみ、そら、さんごのいいつたえ』という映画に強い印象があります。

カメラワークが素敵な映画で、当時は沖縄に一度も行ったことがなく、映像化されたシーンのすべてが美しいこの映画を非現実的だと思っていました。

ところが、実際に沖縄に行くと、これがリアルな沖縄だと知って、初めて納得したことを、思い出します。



第5回

安倍政権は、知事選で示された民意などには目もくれず、埋め立て工事を強行。

いったい誰がどれほどの利益を得るのか、軟弱地盤だとわかっている場所にあえて基地を造るなど、常軌を逸している。

それでも、玉城デニー知事は ”「対話」を大切に” という姿勢を崩さない。

話し合い路線を徹底的に続けることが沖縄の未来を開くと信じている。

 

「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票」も、様々な妨害を受けながらも、対話を重ね、2月24日全県実施にこぎつけた。信念と努力のたまものだ。

 

沖縄県民投票のサイト

 

政府側の人々が、実施しても意味がない、結果に法的拘束力はない、と強弁すればするほど、沖縄の「県民投票」は、大きな意味を持つことになるだろう。

15日からは、期日前投票も始まるそうだ。

どうか今回の「県民投票」が、わたしたち一人一人が、沖縄について考え、政治について学ぶ機会となりますように . . . 。

 

+*+-+*+-+*+  +*+-+*+-+*+ 

 

―― 2018年10月の日記から。

 

玉城デニーさんが立候補してくれて、よかった。 

翁長雄志知事の遺志を継ぐ人なら、誰であっても応援しようと決めていた。でも、デニーさんほどその大役にふさわしく、かつ魅力的な候補はいなかったと思う。 

 

もともと好印象だった。 

デニーさんは、国会議員のときからずっと、日米地位協定の改正を求め、辺野古の新基地にも反対していたから。 

2017年の衆院選では、小池百合子さんの ”希望の党” には合流しない、地元の人たちとの約束を守りたい、と言って無所属で立候補することをいちはやく表明。 

山本太郎さんの「兄」のような存在で、その上、ギターや歌もうまくてかっこいい!

 

けれど、デニーさんは、わたしが想像していたよりももっとずっと、遙かに素晴らしかった。その人となりを知るほどに、すごさがわかってくる。 

 

デニーさんの父親は、在日アメリカ軍の海兵隊員。1959年、デニーさんが生まれる前に軍の命令でアメリカへ帰ったから、デニーさんは父親の顔を知らない。貧しい母子家庭で育ち . . . といったことは、すでによく知られているだろう。 

沖縄に残されたウチナンチュの母親が、「ドル」を稼ぐために基地で住み込みで昼夜を問わず働いてくれたこと、その間、赤ちゃんのデニーさんはお友達の家に預けられていて、だから、デニーさんには二人のお母さんがいた . . . ことなどはどうだろうか? 

 

産みのお母さんを「アンマー」、育てのお母さんは「おっかあ」と呼んでいたんだって。 

子どもの頃は、”ハーフ(アメラジアン)”だという理由で、イジメにも遭った。

(アメラジアンとは、アメリカ人とアジア人の両親を持つ子どものことを指す) 

学校からよく泣きながら帰ったそうだ。 

そのたびに「おっかあ」が、違うことは恥ずかしいことではない、「トゥーヌイービヤ、ユヌタケヤアラン」と教え諭してくれたそうだ。

 

"トゥーヌイービヤ、ユヌタケヤアラン"

沖縄の黄金言葉(くがにくとぅば)で、

「十本の指は同じ丈ではない」の意。 

 

  十本の指の長さや形が違うように、人間はそれぞれが違っていい。

  いろんな人間がいるから世の中はちゃんと動く。

 

1970年、10歳の時、ようやっとアンマーと一緒に住み始める。

それがコザの町で、だからデニー少年は、その年の12月に起きた「コザ暴動」も目撃している。

沖縄の怒りが凝縮されたような暴動だった。

「車は焼け焦げ、ひっくり返されて、煙が立ち上がり、オイルの匂いやタイヤの焼ける匂いが充満していました。僕は何が起こったのかわからなくて、「戦争が起きたのか」と思いました。嘉手納基地のゲートの前から焼けた車がずっと連なっていたのを覚えています。見ている群衆はいっぱいいるのに、なぜかとても静かでした。誰も騒いでいなかった」

(玉城デニー・インタビュー / 2018 沖縄県知事選挙特設ページより)

 

1972年の沖縄本土復帰(沖縄返還)のとき、12歳。 

中学・高校時代は、音楽に夢中になって、やがてロックバンドまで組むことに。

それから、バンドマンや福祉や内装業などの仕事をしたのちに、ラジオのパーソナリティーとして人気者になっていく。

かなり異色の、とても ”沖縄らしい” 経歴の持ち主だ。 

 

とにかく、デニーさんは実際の様々な経験を通して、人の悲しみや淋しさ、苦しみを知っている。沖縄のちゃんぷるーな痛みも知っている。 

だから、デニーさんが言うと「多様性」や「寛容性」、「誰一人も取り残さない」という言葉はあたたかく、少しも嘘っぽくない。

 

恵まれた生い立ち、とは言えないのかもしれない。

けれど、デニーさんは深く愛されて育った人だ。愛された人だけが持つ、独得の、ナチュラルなおおらかさや優しさを、溢れるほどにたたえている。決して人を疑ってかからない。だから、信頼関係をつくることもできる。 

 

ある人が、デニーさんは、イソップ寓話「北風と太陽」の太陽だと言っていた。 

ほんとうに、陽光みたいだ。巧まずして人を和ませ、勇気づける。誰にもくまなく降りそそぐ。虐められている子、独りぼっちの子を絶対に放っておかない(おけない)。 

 

翁長雄志知事と比べると厳しさは足りないだろう。ちょっと頼りなくさえある。 

けれども、頼りない分、親しみやすい。デニーさんは、みんなが助けたくなる、手伝いたくなる政治家だ。人を巻き込む力を持っている。 

だからこそ、翁長知事の後継者としてベストの、奇跡のような候補者だったと思う。 

 

9月に名護の選挙事務所へ行ったときにも、それを実感した。 

玉城デニー候補のことを「玉城さん」という人は、一人もいなかった。 

ほとんどが「デニさん」、年配の人たちは「デニー」って呼び捨てだ。 

事務所の予定表にも、大きな文字が躍っていた。 

「9月20日(木)🌺 ”デニー、来る!” 」

 

デニさんは、ものすごく愛され、慕われていた。 

誰もが、なんとしてもデニさんを知事に、と願っていた。 

 

AさんやBさんは、心優しいデニさんに、大変な仕事を押しつけて申し訳ないという思いも抱いているようだった。

知事になったあとが大変な茨の道だということは、事務所にいる全員が承知していた。 

それでも、デニさんに沖縄の未来を託すのだ。 

 

こんなにヒリヒリするような、思いの詰まった、熱い選挙は初めてだった。

 

映画『沖縄スパイ戦史』の監督、三上智恵さんは、県知事選の三日後に記している。

 「…… かなり毛色の変わった知事が誕生した。しかし、たぶん政府はまだその意味を過小評価しているだろう」

 「翁長さんの後継者ならだれでも当選できたという選挙ではなかった。これだけ踏みつけられた人々だからこそ推す人間、沖縄からしか出てこない逸材 . . . 」

ウェブマガジン9「三上智恵の沖縄撮影日記<辺野古・高江>より

 

2019年2月。

玉城デニー知事の就任から4ヶ月がたって、あらためて三上さんの言葉を思う。

過小評価していたのはわたしも同じだ。やさしい雰囲気のデニー知事が、これほどまでに打たれ強い、信念の人だとは思っていなかった。

ほんとうに「沖縄からしか出てこない逸材」だったのだ。

 

前途多難なのはわかりきっている。政府の横暴は簡単には止まない。それでも、デニーさんは、「対話」を大切にやっていくだろう。

基地の問題だけでなく、ほかの公約実現のための取り組みも続けている。

今年度から、経済的に厳しい「一人親家庭」の高校生を対象に、バス通学の費用の一部を補助することが決まった。

将来の、中学生と高校生のバス通学費の無料化に向けて、アンケート調査も始まる。

 

全力で . . . 応援したい。💕


沖縄についてもう少し知るために

イソップ寓話「北風と太陽」はこんなお話です。

 

あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。

まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。しかし寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。

次に、太陽が燦燦と照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。

これで、勝負は太陽の勝ちとなった。

(Wikipediaより)

 

詳しくは「北風と太陽」のサイトをご覧下さい。

 

Ryuichi Sakamoto - Undercooled (Live 05)

「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」の原曲undercooledをライブ盤のピアノソロで。

「北風と太陽」の話を紹介していたら、静謐なたたずまいを感じさせる、この曲が聴きたくなりました。

 

力づくで支配しようとしても、長い時間が経過するうちに、結局最後は負けるんです。

 

中村とうよう『ポピュラー音楽の世紀』岩波新書を読むたびに思います。

アフリカから世界中に奴隷として連れ出された黒人たちのうち、アメリカ合衆国に渡った人たちが、いまから一五〇年前、奴隷から解放されたとき、音楽やスポーツを中心として21世紀の大衆文化をリードするなんて誰が想像しただろうって。

最近、農業を勉強していて、ダーウィンの進化論を日本人は「弱肉強食」と間違って理解してることも思い出しました。

 ダーウィンも影響を受けた哲学者ハーバート・スペンサーが「サバイバル・オブ・フィッテスト」って提唱したワケですよね。

 正しくは「適者生存」です。強いモノが弱いモノを滅ぼすワケじゃないんですね。

 

この違いは、ものすごく大きいです。

 

そして、21世紀は土俵際まで追い詰められた「適者生存」が、徐々に「弱肉強食」を土俵中央まで押し返す時代になってゆくような予感があります。




第4回

汀間港へ抗議船の様子を見に行く途中、仲本さんは三原のお友達の家に寄った。台風で壊れた作業小屋の修理を頼むためだ。お友達は、風貌からかベートーベンと呼ばれていた。何でも直せる便利屋さんらしい。 

 

車で待つように言われたけれど、雨も上がったので、降りてあたりを歩いてみた。 

名護市以北、ヤンバル(山原)と呼ばれる地の、昔ながらの素朴な集落。石の塀で囲まれた古い寄棟の平屋、どこまでが庭でどこからが畑なのか、ニワトリたちが鳴いている。「コッコーーーーーーーーーーー、コケ」という長い鳴き声。 

一人のご老人が、台風で折れた木々の枝や散乱した落ち葉を片づけている。慣れた手つきで淡々と。琉球国(ルーチュークク)のころから長いあいだ、きっと幾度となく繰り返されてきた光景 . . . うちなーんちゅは、大自然の恵みを受け、その厳しさとも折り合いをつけて暮らしてきたんだろう。 

 

反対側には、見上げるほど高いフクギの防風垣。いただきから小鳥が3羽、4羽と飛び立つ。色も形も鳴き声もメジロ . . . だけど、小柄だ。(あとで調べたら、リュウキュウメジロらしい)これも、ベルクマンの法則だろうか? 

 

ベートーベンさんのお家から、仲本さんの作業小屋のある山のふもとへ。 

小屋のまわりに植えられた庭木3本が根こそぎ倒れ、畑の島バナナは全滅、ウコンや月桃もなぎ倒されていた。 

 

県知事選の投票日。沖本さんのもとへは、ひっきりなしに電話がかかってくる。会話が込み入って長くなることもしばしば。おかげで、わたしは一人あたりを見て回ることができた。 

 

雨上がりの畑を歩いていると、雲が切れて日が射してきた。それからの数分間のことを、わたしは生涯忘れないと思う。 

 

日が射してあたりが明るくなった瞬間、森から一斉に小鳥やセミの鳴き声が聞こえはじめた。そして、どこに隠れていたんだろう、たくさんのトンボが畑の上を飛び始めたのだ。おそらくウスバキトンボ、その数200匹かもっと。そして、10匹ほどの蝶々もヒラヒラ。マダラチョウの仲間だと思う。 

すこし歩いて行くと、10㎝以上もありそうな大きなバッタが草むらの中をビュンビュン飛んでいる。最初はネズミかなにか、小動物かと思った。 

あの凄まじい暴風雨のあいだ、みんなどこに隠れていたんだろう。 

太古の昔から続く生命のなんという力 . . . ! 

 

伊豆の小島で生まれ、自然に囲まれて育ったわたしだけれど、それでも衝撃を受けた。

 

草いきれの中で、圧倒され、まるで時間が止まったように感じた。 

辺野古の森、すごい . . 。   

当たり前だけど、命どぅ宝(ぬちどぅたから)は、人間だけじゃないね。 

生きとし生けるものすべて、宝物だ。 

 

エコって、何だろう? 

わたしたち、もうこれ以上便利にならなくていいんじゃないか。 

それで、自然を守れるなら、共生できるなら、 

世界の不均衡も小さくなるなら . . . 

 

豊かさって、何だろう? 

辺野古で、また大きな宿題をもらった。

リュウキュウメジロ(wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ)
リュウキュウメジロ(wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ)

沖縄についてもう少し知るために

ちょっと風変わりなマーケティング・コンサルタントの甲斐徹郎さんが書いた『自分のためのエコロジー』という本を読んでいたら、こんなことが書いてありました。

渋谷やみぃさんが滞在した名護の近所には備瀬という集落があって、そこでは住宅が自然とケンカするのではなく、調和しながら美しい景観を作り上げているそうです。

防風林が海からの風を柔らかく受け止め、自然の空調設備になって、家々を冷やす。

ほんの50年~60年前まで、日本中どこでも、自然の仕組みを生かした、地に足のついた暮らし方をしていたわけで、長い歴史からみれば、ほんの一瞬でしょう。

やみぃさんが沖縄の自然に衝撃を受けた気持ちは、ぼくもよく分かります。

屋根までとどく、あじさいの木。ホテルの庭木にとまった見たこともない巨大なコウモリ。

そして、もちろん、どこまでも青い海と白い砂浜。

 

『自分のためのエコロジー』について書いたブログがありましたので、そちらのリンクもはります。

ARCHISCAPE



第3回

2019年1月26日

2月24日の辺野古の新基地建設をめぐる沖縄県民投票は、「賛成」「反対」の2択に「どちらでもない」を加えた形で、全県同日実施ができそうとのこと。

「『辺野古』県民投票の会」の元山仁士郎代表のハンストや署名活動などが、人々の心を動かした結果だろう。

2018年9月30日、玉城デニー知事が誕生してから、わずか4ヶ月。その間、あまりにも多くのことが起きている。

 

10月9日、翁長知事の県民葬。

12月14日、辺野古に土砂投入。

 

軟弱地盤の存在で工事の見通しがまったく立たないのに。しかも、土砂は不許可の赤土入りで、なぜか高価なもの。

2019年1月8日、 「辺野古の土砂投入を止めて」というホワイトハウスへの嘆願署名、20万筆を超える。

1月15日~19日、元山仁士郎さん、宜野湾市役所前でハンガーストライキを決行。

 

昨年9月に、名護や宜野湾で出会った人たちは、お元気だろうか、いま、どんな気持ちでいるだろうか . . . 思いをはせる。

ガジュマルの木(クリエイティブ・コモンズ)
ガジュマルの木(クリエイティブ・コモンズ)

9月29日。台風24号のために、那覇空港は、国内線・国際線の約320便が全便欠航。空港へのモノレールやバスも運休、ターミナルビルも終日閉鎖となった。 

 

名護の事務所で、投票依頼の電話をするとき、名前の読み方で苦労した。 

県外から手伝いに来た人用だろう、むずかしい地名や姓が一覧表にして貼ってある。 

電話がけの名簿をもらって最初にするのは、お名前にふりがなを振ることだった。 

 

東我謝(あがりがじゃ)、安慶名(あげな)、伊是名(いぜな)、伊良波(いらは)、運天(うんてん)、大宜見(おおぎみ) . . . 

 

東をアガリと読むのは、日が上がるから? 

そうか、西表(いりおもて)は . . . 日の入りのイリだ! 

 

独得の音や読み方が、おもしろい。 

うっかり読みを確認せずに電話をしてしまって、 

「ごめんなさい、お名前、どうお読みするんでしょうか . . 」 

などという、とんでもないところから、お話させていただけることも。 

 

台風のさなかだというのに、丁寧に応対してくださる人が多くて、感激する。中には、「だいじょうぶじゃないさ、まだ停電してて困ってるよー! でも投票には行ってきたよ、デニーさんに知事になってほしいからね、おねえさんもちばりよー!」 

思わず電話口でお辞儀をして拝む。 

にふぇーでーびる! 

 

(選挙のお手伝いに来たのだから、どこも観光しなくていい)と思っていた。 でも、電話がけをしながら、人情にふれ沖縄の情緒も味わえて、観光以上の経験だ。 

 

ホテルから事務所まで歩くあいだにも、ひんぷんガジュマル(大きなガジュマルの老木)があったりして、楽しかった。 

沖縄のお墓は、ひとつひとつが頑丈な「ちいさいおうち」みたい。見飽きない。名護博物館の前も何度も通った。「名護・やんばるの生活と自然」をテーマにしているそうだ。 

また名護へ行ったら、そのときにはきっと訪れてみよう。💕 

9月30日、投票日。

台風の風はおさまり、雨も小降りになってきた。けれど、町のあちこちに壊れた看板などが散乱し、折れた街路樹が道をふさぐ。信号も消えたままだ。 

友人の脚本家、ヤマザキさんは、この日帰京予定。無事に那覇へ行けますように、飛行機が飛びますように、と祈りつつ、わたしは一人名護のデニー事務所へ向かう。 

 

「いやあ、畑の作業小屋が壊れたそうなんだ。船も心配だから、ちょっと見てくるよ」 

ヘリ基地反対協議会の仲本さんが、事務局長の森本さんに話していた。 

「船 、見たいなあ . . . 」思わず声にしてしまった。 

よっぽど見たそうだったに違いない。仲本さんが一緒に連れて行ってくれることになった。 

 

ずっと行きたかった辺野古! 今回は無理だとあきらめていた辺野古! 

「戻ったら電話がけ、がんばります」と事務局長に約束し、仲本さんの車に乗せてもらう。 

雨あがりの汀間(てぃーま)川。生い茂るマングローブの樹上で白いコサギの群れが休んでいる。まるで絵画を眺めているみたいだ。 

 

河口が近づき、潮の香りがしてくる。 

ほどなく五隻の抗議船が並んだ場所へ。幸いどの船にも、台風の被害はなさそうとのことだった。いままで何度海に出たんだろう、何人の人を乗せたんだろう。「平和丸」と「美ら海(ちゅらうみ)」につけられたレインボーフラッグは3分の1ほどにちぎれていた。 

 

辺野古の海は、嵐が去ったばかりだというのに、翡翠とミルクを溶かしたような色をたたえていた。なんて美しいんだろう。ほんとうに美ら海だ . . .  胸がいっぱいになる。 

 

キャンプ・シュワブのゲート前には、座り込む人もいないのにALSOK(アルソック)の警備員が並んでいた。微動だにせずものものしい雰囲気。 

 

「けれども目の前のこの人たちは”敵”ではないわけさ、仕事だから立ってる人が大半でさ。絶対に敵ではないんだよ。」 

仲本さんはつぶやくように、半分独り言みたいに言う。 

故翁長知事の言葉を思い出す。 

「ウチナンチュが分断されて憎み合っているのを後ろの方で笑ってみている人がいる。戦うべき相手はその後ろにいる人たちだ」

帰りがけ、仲本さんは、大浦湾を一望できる西側の高台にも寄ってくれる。黒い牛が日なたぼっこしている。

埋め立てられようとしている辺野古の海は、写真や映像で見るよりも、ずっとずっと広かった。 

2011年9月東日本大震災のあと、初めて陸前高田の海を見たときの衝撃を思い出した。 

 テレビで見る映像は、どんなに鮮明だとしても「面」なんだと思った。 

画面からは、見渡すかぎり広がる荒涼とした風景の、"奥ゆき" や "広がり" が、ほんとうには感じられない。 

町全体が根こそぎ持っていかれた、その根こそぎの "深さ" が、感じられない。  

深さも匂いも感触も、ほんとうには感じられない、と。 

 

涙があふれた。

こんなに美しい海を埋め立ててはいけない。 

軍事利用という殺伐が、これほど似合わない場所はない。 

この海を戦争のために使うなんて、許してはいけない。 

 

いままでも、ずっとそう思っていた。だから、辺野古へ行きたかった。 でも、実際に行ったら、もっと . . . からだじゅうが思った。

絶対にこの海を埋め立ててはいけない。


うないぐみ+坂本龍一「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」

 【うないぐみ profile】

沖縄民謡の古謝美佐子、宮里奈美子、比屋根幸乃、島袋恵美子の4名からなる女性グループ。

「童神」のヒット曲でも知られる古謝美佐子を始め初代ネーネーズに在籍した宮里、比屋根に加え、かねてから親交のあった島袋が参加して2014年から正式に活動を始める。

「うない」とは沖縄方言で「姉妹」の意味。4人とも沖縄民謡に精通した実力派民謡歌手の集まりで、4名のユニゾンとともに各メンバーのソロも演唱する。レパートリーも伝統的な沖縄民謡からオリジナル曲、カバー曲まで多種多彩。

本楽曲の売上げからレーベルサイドの手数料や諸経費をのぞいたアーティストの収入は全て*辺野古基金に寄付されるそうです。

 

*辺野古基金:辺野古新基地建設に反対し、建白書において要求されたオスプレイ配備の撤回、普天間基地の閉鎖・撤去及び県内移設を断念させる運動(活動)の前進を図るために物心両面からの支援を行い、沖縄の未来を拓くことを目的とする。



第2回

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9月30日、デニーさんと一緒に、どうしても当選してほしかった人がいる。宜野湾(ぎのわん)市長候補、仲西春雅(ナカニシ ハルマサ)さんだ。 

28日(金)、名護で朝のスタンディングのあと、県と市、ダブル選挙の宜野湾市へ応援に行った。

事務長いわく、「仲西春雅さんは良い候補だけど、まったく歯が立たないだろうと言われていた。しかし、選挙戦も終盤に近づき、前市長の後継者をかなり追い上げている、今朝、手伝いに来てほしいとの依頼が来た。宜野湾では名護よりもさらに人が足りない。行ってナカニシさんを応援をすることは、デニーさんの応援にもなる。一石二鳥だ。」 

それで、名護から宜野湾に6人が派遣されることになった。車2台に3人ずつ。わたしは、事務局の比嘉さんと、先輩で友人のヤマザキさんとチームを組んだ。 

台風24号が近づく中、住宅街をのぼり旗と拡声器のセットをかついで、プチ街宣。 

「知事には、玉城デニー、市長には、ナカニシ春雅」 

二人の候補の政策と魅力をアピールして歩いた。 

 

拡声器で話しているときも、強風の中、のぼり旗を持ってえっちらおっちら歩いているときも、驚くほど多くのドライバーさんが、応えてくれる。 

手を振ったりガッツポーズをしたり、クラクションを鳴らしたり。中には車を止めて、「けさ、デニーさんとナカニシさんに投票してきたよ」「絶対に勝ちましょうね」と言ってくれる人まで。 

住宅の側でも、待っていましたとばかりに、窓を開けて手を振ったり「がんばって!」と声をかけてくれる人が続く。わたしは感激で、どうしていいかわからない。 

翁長樹子さんとは真逆の「何なんですかこれは」だ。 

 

ほんとうに、どうしたことだろう? 仲西さんが善戦しているとは聞いていたけれど、予想をはるかに超えるすごい手応えだ。 

宜野湾、デニってる!? ナカニシってる!?  

もしかすると、県知事選に出馬した、いままでの市長の佐喜真淳氏に失望している人が多いってことだろうか? それとも、相手方陣営のプロっぽい組織的な選挙のしかたに嫌気がさしているのだろうか? 

 

わからない。だけど、とにかく、あたたかい。 

中でも、赤ちゃんを抱いたお母さんなど、若い女性たちの歓迎ぶりが印象的だった。 

 

去年12月に相次いだ、宜野湾市の保育園に米軍ヘリの部品が落ちていた事故や小学校への窓枠落下事故 . . . やっぱり関係あるのかな。普天間基地の近くの人たちはつねに不安な思いをしている。だから、そうした事故が起きたときに寄り添ってくれた仲西さんを応援するの、当然なのかもしれない。 

そんなことを思いながら、マイクをにぎり、手を振り、お辞儀をし、ちらしをポスティングして歩いた。 

仲西さんは、故翁長知事やデニーさんと同様、普天間基地の無条件の閉鎖を訴え、辺野古移設には「反対する」と明言している。 それで、わたしは仲西さんに、ぜひとも宜野湾市長になってほしかったのだ。 

結果は20975票を獲得して、文字どおり善戦。けれど、自公系の松川正則氏に、5239票及ばなかった。 

 

あとから聞いたところによれば、 仲西さんは、スロースタート。8月末に宜野湾市長選挙への出馬の要請を受け、そこからまっさらの立ち上げだったそうだ。

言っても詮ないことだけど、もうすこし時間があったら . . . とやはり考えてしまう。 

新市長の松川さんは、辺野古移設に関しては「国の専権事項であり、市からは発信できない」と賛否を明らかにしていない。でも、今回の選挙で、組織票がほとんどなく、台風も来ちゃったにもかかわらず、仲西さんが2万を超える人々の支持を集めたことを、受け止めてほしい。 

辺野古やよそに新基地を作らなくても、普天間の閉鎖・返還はできるはずだもの。

政府は、辺野古の埋め立てなんかじゃなく、不公平な日米地位協定の見直しをしなくちゃ。それに、米軍機の飛行ルートや時間を制限するなど、いますぐにもできることだっていっぱいだ。

 

10月1日、仲西春雅さんのツイートは次のよう。

”応援してくださったみなさま、この度は力及ばず当選することができませんでした。

当選した松川正則新市長、ぜひ子どもの安心・安全を最優先に宜野湾市政を担っていただければと思います。

私も引き続きできることをがんばってまいります。

今後ともよろしくお願いいたします!”

https://twitter.com/Nakanishi0930

力及ばなかったのは、わたしたちのほう。仲西さんのような素晴らしい候補者を当選させられなくて . . . 。次回こそきっと!

 

名護から宜野湾へは、高速を使って一時間ちょっと。 

往復で二時間半。 

選挙事務所の女性スタッフ比嘉末美さんが、運転をしながら、様々な沖縄の話をしてくれる。比嘉さんはふだん仕事で地域の人たちの相談にのっている。

沖縄には、借金苦やDV被害から逃れるために、本土から夜逃げ同然にして移り住んでくる人も多いそうだ。比嘉さんはそういった人たちを助けたりもしているらしい。 

たしかに、夜逃げをするなら沖縄がいいな、と思う。 

追っ手も沖縄まではなかなか来ないだろうし、第一、暖かい。薄くて軽い服やサンダルだけ持てば済むの、逃げるのにはうってつけだ。街も、多様性があって、ちょっとごちゃごちゃしていて、紛れやすい。 

それに、なんといっても、大らかでやさしい人が多いから、かくまってもらえそうな気がする。 

駆け落ちして行く人もいるかなあ . . . ? 

比嘉さんの話を聞きながら、沖縄への移住だとか、いろいろ夢想して楽しかった。

 

埼玉の自宅へ戻ってからも、ずっと沖縄熱が続いていた。

新知事デニーさんのことを海外メディアが絶賛していると聞き、涙ぐむ。

そして、日本でも、カチャーシーを習う人、かりゆしウエアを着る人が、増えるだろう、と嬉しくなった。




第1回

2018年9月30日夜。

名護の玉城デニー事務所では、支援者25人ほどが歓喜の瞬間を待っていた。

9時34分、みんなで手をつなぎ、テレビ画面に映し出されるデニーさんの合図に合わせて、万歳をする。よかった、ほんとうによかった。両手をつないでいるから、あふれる涙をぬぐえない。ふっと「ああ、涙はこんなふうに流れ落ちるんだった . . . 」と思う。

名護の事務所は、たいそう地味で、那覇の選挙事務所のような若さや華やかさはない。だけど、すてきだった。デニー知事誕生のためにずっと頑張ってきた人たちが、顔をくしゃくしゃにして喜び、泣いている。歓喜と安堵がまじりあったそれぞれの表情に、わたしの涙腺も崩壊した。

「名護市周辺では厳しい戦いを強いられている」と聞いていた。キャンプ・シュワブや辺野古の建設現場など基地の仕事で生計をたてている人が多い。その上今回は、日本政府の信じられないほどの圧力がかかった。にもかかわらず、デニーさんは名護市で16,796票を獲得。佐喜真淳氏の得票を1783票も上回った。

その誠実でやさしく飾らない人柄や、政治家としての可能性が伝わっていたのだと思う。ほんとうにデニーさんほど魅力的な候補者は、そうはいない。沖縄県全体では、過去最多得票の39万票余。無党派層の7割、公明党支持層の3割弱がデニーさんに投票したそうだ。

投票日の30日は、大きな台風24号の影響で、市内のあちこちで倒木、通行止め。前夜からの停電が続いている地区も多かった。消防車や救急車のサイレンが聞こえる。休日返上で職場へ駆けつけた人もいただろう。人や家は無事でも、鶏小屋が飛ばされた、船が壊れたなど、聞こえてくるだけでも、被害は甚大だった。

わたしが見た地域でも、サトウキビ畑やウコン畑は全面がなぎ倒され、ハウスのビニールは破れ、バナナの木もバキバキに折れていた。

前日の29日は、期日前投票所もほとんどが閉鎖。だから28~30日、投票に行きたくても行けなかった人も多かったに違いない。

もしも台風が来なかったら、差はさらに広がっていた。デニーさんの圧勝、どれほどの圧勝だっただろうかと思わずにいられない。

とにかく沖縄の人たちは、現政権のやりかたに四年前よりもさらに強い「ノー」の意思、民意を示したのだ。 「沖縄」に新基地はいらない。普天間基地は閉鎖・返還(辺野古に"移設"ではなくて)!と。

沖縄は、すごい、ほんとうにすごい。

 

もちろん 玉城デニー知事、これからが大変、茨の道だ。

安倍政権は、沖縄の民意に反し、移設工事を進めようとするだろう。工事で得をする人たちだけのために。そして、沖縄を犠牲にしてアメリカに貢ぎ続けるんだろう。

でも、デニーさんなら、きっとだいじょうぶ。国によって引き裂かれ、分断されてしまった沖縄を、数字ではとうてい測り切れない人々の複雑な思いを、きっとひとつにまとめてくれる。

 

わたしにできることは何でもしよう。 まずは、埼玉で現政権に「ノー」を示すこと。

そして、沖縄が置かれた苦境と、すてきな新知事誕生のいきさつを、周りの人たちに知らせていくこと。

玉城デニー知事の応援につながること、ナイチャー(ヤマトンチュ)のわたしがすべきこと、しっかり考えていきたい。

10月1日、沖縄からの帰り道。JALの客室乗務員さんの何人かが、胸にピンクリボンをつけていた。そのうちの一人に「ピンクリボン(乳がん啓発)月間ですね」と声をかけると、 「はい、今日からです」 うれしそうに微笑んでくれた。

 


沖縄についてもう少し知るために

柳宗悦著『民藝四十年』岩波文庫

発行人は家族旅行で、嫌々沖縄に行くことになり、何の期待もせずに那覇のホテルにたどり着いて、旅行鞄の中に放り込んでおいた未読の岩波文庫を読んで目から鱗が落ち、以後重度の沖縄病患者への道をまっしぐらに進むことになります。

その本こそ、柳宗悦著『民藝四十年』の一章「琉球の富」です。

この本を読むと、ぼくたちが、日本らしくないと感じている沖縄の生活文化が、実は古来の日本の生活文化に直結していることがわかります。